どうも、はじめまして。
私は今沖縄で大学生をしております、安部弘祐と申します。
ただ、私は一般の大学生ではありません。高校卒業し大学合格が決まった直後、腎臓の難病であるネフローゼ症候群を発症し、地元宮崎の病院に緊急入院した過去があります。
そして、大学進学のために知り合いも親戚もいない沖縄に引っ越し、1人で入院生活を送ってきました。
今回依頼を頂きました寄稿では、私安部の実体験を交えた孤独感についてお届けします。
人生が狂ったネフローゼ症候群発症
忘れもしない、3年前の3月。念願だった国立大学に合格することができ、「よっしゃ!大学生活楽しむぞ~!」と思い意気込んでいた頃。突然身体が浮腫み、息をする事ができなくなり、地元宮崎の病院に行きました。
最初は、何の病気かわからず病院を転々と受診していました。そして、3回目に受診したちょこっと大きい病院にて精密検査を行ったところ「これは大きい病気かもしれない」と先生に言われ、地元で一番大きい病院も紹介状を書いてもらい、その後すぐに大きい病院を受診します。
そこで、腎臓専門の先生に告げられた言葉は「これは、ネフローゼ症候群という難病ですね、このまますぐに入院してください」と言われ、受診そのまま入院しました。
その時の病状は、83kg中の20kg程水が溜まり、右の肺が2/3程水で潰れ左の肺が1/3程潰れ呼吸困難を起こしていました。入院した翌日の夜に呼吸が出来なくなり、気絶したことを覚えています。
当時、難病と診断された時は「え、ネフローゼ?新種のイタリア料理かな?」と思いました。しかし、入院生活をしながら看護師さんや主治医の先生の話を聞いている中で、「あ、この病気はやばいやつなんだ…」と徐々に理解することになります。
1人で沖縄に移住
身体に溜まっていた水が抜けた4月上旬、主治医の先生から「大学どうする?」と聞かれ「いきたいです。せっかく勉強頑張って大学合格したので」と答えました。
主治医の先生は、私の家は経済的に豊かじゃないことを知っていたので「安部君、1人で入院生活送る事になると思うけど、大丈夫?ただでさえ1人で生活するのってストレスかかるし、ストレスかかると再発する可能性もあるよ?」と話を頂きました。
すぐに「いきたいです」と答え、4月13日に沖縄の大学病院に転院。那覇空港からそのまま大学病院に向かいました。そして翌日の4月14日には、家族は地元に帰り1人で入院生活を送ることになりました。
ただ、この時はそこまで辛くありませんでした。というのも、研修医の先生、医学部の実習生、主治医、看護師、そして近い世代の一緒に入院していた方に支えられ、なんとか入院生活を送っていました。
孤独から自殺願望に
孤独を感じ、辛い生活。いわゆるどん底状態に陥ったのはそこからです。
5月のゴールデンウィークの前に退院したのですが、5月末には再発。そして6月には再入院をすることになりました。
再入院した時は、4月沖縄に転院していた時に相談に乗ってくれた医学部の先輩も、研修医の先生もおらず一緒に入院生活をしていた方も退院したので居ない。
それだけではなく、7月くらいに入院していた病棟の患者数が増え、病床数が限界になったことで元々入院していた病棟から別の病棟に移動したので、私の状況を知っている看護師さんとも離れました。
正直、本当に孤独でした。病院は21時に消灯なのですが、私は大学に通っていたので勉強や課題で21時以降も勉強していました。廊下に椅子と机を出してもらい勉強をするのが当たり前だったのに対し、別の病棟に変わったので廊下で勉強が出来ず、真っ暗な自室で勉強したこともあります。
相談する看護師さんもいない、主治医もいない。
孤独な状況から、自分の悩みを話すことができなくなり、最終的に自死することまで考えていました。自分が自殺すれば、どれだけの保険料が降りてどれだけ奨学金を返し、どれだけ余るかを計算するところまでいっていました。
救ってくれたのは同じ当事者
そのどん底状態から脱出することができたのは、同じ当事者の声でした
当時SNSやブログなどでつぶやいていたり、日記を書いていました。
そこに「頑張れ~」や「私も今頑張ってます!ともに頑張りましょう」などたくさんのコメントが来ました。
「あ、同じ悩みを持っているのは1人じゃないんだ」
そう実感した瞬間、すっと心が軽くなりました。
そしてこれから
それから3年がたち、今「難病当事者とそのご家族の将来に対する漠然とした不安」を解決するために、本を出版しようと活動をしています。
あの時、自殺しそうになる時の自分に、「ひとりじゃないよ」と伝えてあげたい。そういう気持ちで日々を頑張っています。
「共に頑張ろう!」とは言いません。
仲間はいます。
いつでもご連絡くださいね。
では。